月曜日, 6月 23, 2008

日本が環境グローバルスタンダードを握る日は終ぞ来ないであろう理由

WIRED VISION

(これまでの 藤井敏彦の「CSRの本質」はこちら)

過去2回ヨーロッパの環境規制がグローバルスタンダードになる理由を考えてきました。まず、企業のサプライチェーンにショックを与える「新しい規制」を作る、ということでした。それが、サプライチェーンを通じて世界中に伝播する。

もう一つ付け加えなければいけないのは、尖った新規制は他国に真似される、ということです。例えば、カリフォルニア州はヨーロッパのRoHS指令を 文字通り「コピペ」。アメリカ全体がRoHS指令を採用したのと事実上同じ効果。中国や韓国もヨーロッパに追随して有害物質の使用禁止規制を導入しまし た。

企業の事業活動を通じた事実上の伝播」と「他国がEU規制を真似る規制そのものの拡散」という二つのルートでEU規制はグローバルスンダードにのし上がっていったわけです。

前回ノルウェイの例で見たように、このようなことはEUのように巨大な政治体でなくても、小さな国でもできることです。さて、では日本にできるで しょうか? 環境ルールの世界で日本は世界覇権を握れるか? あくまで個人的な感想ですが、ワタシはあまり楽観的ではありません。


■日本では理念先行の尖った規制は無理?

「尖った」規制をつくることが日本は不得意です。いや、こう言うと語弊がありますね。正確に言えば、日本の社会は尖った規制をつくることに価値を置かない。

マスコミの報道を見ていれば明かです。ほんの些細な法令違反でも書き立てるのが昨今の新聞ですよね。法令は施行されたその瞬間から完璧に守られてい るべきだという社会的前提があります。このような社会的な状況下では、RoHS指令やその後のREACH(ものすごく革新的なEUの化学物質規制)のよう な鋭角的ルールは生まれてきません。

EUの法令は多分に理念的で、少なくとも当分の間きちんと実施されるなどとは誰も思っていない。法令違反の状態が一定期間続くことが暗黙の了解で す。逆に言えば、それくらい革新性があるということです。革新性は環境保護の理念から来るもので、よって、他国の環境当局にとってとても魅力あるものに映 ります。カリフォルニア州とかが真似する所以ですね。

日本は真面目なので規制つくるまでに徹底的に調整するでしょ。そして、施行当日からきちんと実施される。逆にいえば、実施可能なものしか法律にはな らないのです。当然、角がとれる。あるルールが国際的な訴求力を持つかどうか、最大のポイントは理念の強さであって円滑な実施ではありません。

調整といえば、欧州議会のRoHS指令の審理を傍聴していて「凄いなあ、敵わないや」と思ったことがあります。それは、中小企業を例外扱いするか、 という点。欧州議会は「環境保護に大企業も中小企業もない」と中小企業の例外扱いをにべもなく拒絶します。日本だったらどうでしょう? マスコミは「結局 しわ寄せを受けるのは可哀想な中小企業」ってなキャンペーンでも張りかねない。政治もそれを受け入れる。外国からは理解でいない例外だらけの規制になる。

表でEU規制がグローバルスタンダードになっていることに異を唱えている産業人に、「じゃ、日本が先んじますか?」と裏で聞けば、ほとんどの人は 黙ってしまうでしょう。グローバルに波及力のある規制ができても、マスコミは必然的に起こる不遵守の事例を面白可笑しく書くでしょう。世の論は無責任な法 律を作った政府を批判するでしょう。つまりそんな規制をつくることは、誰の関心事でもないのです。結果として、日本はEUの後ろを追いかけ続けることにな ります。

仕方ないと思います。他罰的な社会がすぐ変わるわけでもないから。頑張ってEUにロビイングしながら、国内では真面目に実施可能な環境規制を考える、というのは一つのやり方。そもそも規制が環境を改善するのではなく、規制の実行ですから。環境を改善するのは。

ただ、「環境グローバルスタンダードを握れ!」と威勢のよい主張に接すると、一体どこまでの覚悟があっての発言なのだろうって考えてしまいます。山ほど質問したくなる(笑)。

もちろん、希望がないわけではない。成功事例があります。「省エネ法のトップランナー方式」です。最もエネルギー効率の高い製品が基準になるという、日本発のアイデアでエッジが立っている。出来るときは随分物議を醸しましたが、海外で高く評価されています。

欧州議会で「日本に学びトップランナー方式をEUも導入すべきだ」という議論がなされたとき、沢山のロビイスト仲間が連絡してきました。祝意半分、疑念半分。「オマエ、うまくやったな」って(笑)。そんなことはなくて、あれはあの規制が持つ理念の力だったのです。


金曜日, 6月 20, 2008

もはや自民も民主も不要!:永久寿夫 (PHP総合研究所常務取締役)

Voice
ダッチロール状態の日本政治

ねじれ国会である。衆参それぞれ別の時期に選挙が行なわれるのだから、両院で多数派が異なる現象が生じるのは何もおかしくはない。いや、同時に選挙を行 なっても選挙方法が異なるのだから、結果的にねじれが発生する可能性もある。実際、外国の例をわざわざ持ち出さなくとも、過去を少し振り返れば、こうした 状況は9年ごとに現れている。

リクルート事件、消費税導入、宇野宗佑首相の女性問題と続いたあとの1989年の参院選で、自民は半数割れとなった。宇野首相辞任後の首相指名では、衆議 院が自民党の海部俊樹を指名したのに対し、参議院は社会党の土井たか子。参議院で、消費税廃止法案が可決され、89年度の補正予算が否決されるなどもし た。

それから9年後の1998年の参院選では、消費税率引き上げや景気の後退、失業率の上昇、減税に関する橋本龍太郎首相の一貫性のない発言などが要因で自民は敗北。責任をとって橋本首相は辞任する。

その後の首相指名では、衆議院で自民党の小渕恵三が指名されるも参議院は民主党の菅直人を指名。金融再生法案では参議院で野党が修正案を提示し、与党はそ れを丸呑みするという事態が生じている。防衛庁調達実施本部の背任事件で、額賀福志郎防衛庁長官が問責決議を通され辞任した。与党に打撃を与えたという点 では、今回のねじれと同様である。

ただし、今回のねじれが前回の2つのケースと決定的に異なるのが、自民・民主の大連立、あるいは大幅な政界再編がないかぎり、ねじれは解消しない点である。

1989年のときには、自公民が政党間協議で同調するというかたちで与党は参議院で過半数を回復した。98年のときには、自民は自由・公明と連立を図り、 ねじれを解消した。つまり、自民は参議院の少数派と手を組むことによって、危機から脱出したのである。だが今回は、自公与党は参議院で最大多数となった民 主党と大連立を組むか、さもなければ民主の一部を離党させて吸収しないかぎり、参議院で過半数を得ることはできない。

昨年11月にわいた大連立構想が誰の思惑で進められたのか、真相はよくわからないが、ねじれ現象を解消しようという力学が働いたのは確かだ。その大連立構 想の主人公で、「民主には政権担当能力がない」と自らの政党を酷評した小沢代表の辞任表明を拒否し、留任を求めた民主党幹部には、小沢代表が「配下」を引 き連れて自民に合流するのではないかという危惧があったのではないか。

いずれにしても、今回のねじれは規模が大きいだけに、その分、政局を大きく変化させうるだけのエネルギーが政治の舞台裏で溜まっている。

大連立が成立しなかった背景には、衆院選に向けて選挙区ごとの候補者のバッティングをどう解決するかという「ミクロ」な問題もあっただろうが、むしろ 1998年の結党以来、政権交代を悲願としてきた民主に、千載一遇のチャンスを逃してはならないという判断があったはずである。参院選の勢いがあるうちに 衆議院を解散総選挙に持ち込み、自公を政権の座から引きずり下ろす、与党と徹底的に対立し、ダメージを与える、そのためには手段は選ばない、という戦術が 開始されるのである。

その端的な例が、日銀総裁人事とガソリンの暫定税率ではないか。

日銀は財務省にとって最高の「天下り」先で、事務次官経験者が何人も総裁のポストを占めてきたのは確かではある。だが、これによって日銀の独立性が損なわ れてきたかどうかは一概に結論づけできない。もちろん、有害な天下りは無用だし、経歴が考え方を左右もするが、現職の独立性を保つために経歴を制限すると いう論理は強引すぎる。事実、民主内部ではそのやり方に批判的だった人間はかなりいる。何度も拒否を続ける民主をやりすぎとみた有権者は多いし、政府与党 も、それを予想して拒否されるような人材ばかりを提案してきたのではないか。

暫定税率のほうは、ガソリンは高いより安いほうがありがたいのは当然だが、ガソリンが安くなって喜びながらも、2兆6000億円もの財源がなくなってほん とうに大丈夫なのか、と多くの「普通の人」が心配した。政治がやるべきことは、暫定税率がなくなったら財政が立ち行かなくなるのか、それを実証的に議論す るところにあったはず。あとになって道路特定財源の一般財源化の議論がさかんになったが、そうした議論をそっちのけで税金を上げ下げするだけに終始した一 時期は、ポピュリズム中毒ともいうべき症状であった。

政府与党による一方的な国会運営が行なわれなくなり、日銀総裁人事や暫定税率など、これまで問題視されなかったイシューが国民の前で論議されるという事態 が生じたことは、ねじれ国会がもたらした1つの効果として評価すべきではあるが、実際行なわれたのは政策本位の議論というよりも政局バトル。反対のための 反対や人気取りといった空虚な争い。有権者にはそれがミエミエであった。

一方の政府与党といえば、虻蜂取らずの停滞状態を続けている。

先の参院選に向けて不祥事が次々と露呈して弱っていた安倍政権に対し、大局的には小泉・安倍の改革路線と同じ方向を走ってきた民主は、突然、方向転換した かのように「子ども手当」や「戸別所得補償制度」など「大きな政府」政策をマニフェストの前面に掲げ、小泉・安倍路線に「付いていけない」と感じた有権者 をさらい取った。

この民主の勝利を見た福田政権は、これまでの方向を突き進めば民意は離れると判断したのか、「ダウンズ均衡」をめざして改革にブレーキをかける。その表れが、小泉時代からの継続事項であった独立行政法人改革や公務員制度改革に対する福田政権の冷たい態度である。

根回し御免の渡辺喜美行革担当大臣の手法に対する批判もあるが、彼が示した改革プランを閣僚たちはほとんど無視。それをそのままにしている福田首相は思考 停止か、「改革派」と「守旧派」の均衡点にはまって身動きがとれないか。暫定税率を復活させ、10年間の道路特定財源法案を通しながら、閣議で一般財源化 を約束したのも同じこと。福田政権は結果的に何もしていないとの印象が強い。

結局、民主のポピュリズム中毒と政府与党の自家撞着で政治はダッチロール現象を引き起こし、到達したところが政治全体への不信ではないか。福田内閣の支持率はすでに10%台に突入、対する民主の支持率はたしかに伸びてはいるが、風が吹くというほどのものでもない。

活発化する超党派の動き

こうした膠着状態を打開しようという動きがないわけではない。与野党超党派の議員連盟や勉強会が新しく発足したり、活動を再開したり、その動きを活発化させているのである。

3月に発足した「せんたく議連」には、自民、民主、公明、国民新党など100名を超える議員が参加しており、分科会がいくつも設置されている。ねじれで法案審議が停滞しがちななかで、与野党横串の連携で風通しをよくし、政策の実現を図るというのが狙いのようである。

個別イシューごとに円滑な政策の実現を目的とした超党派のグループもある。たとえば「医療現場の危機打開と再建を目指す議連」「京都議定書目標達成議連」 「新世紀の安全保障体制を確立する若手議員の会」「多重債務問題対策議連」「量刑制度を考える会」「地方政府IT推進議連」などがこの2月ごろから次々と 設立され、活動を展開している。

政治的な信条によるグループなどもできている。自民党の中川昭一元政調会長が会長を務める「真・保守政策研究会」は自民党内の研究会だが、無所属から平沼 赳夫元経済産業相が参加していたり、また民主の保守系議員とも近い関係にある。こうした保守勢力から一線を画すリベラル派の勉強会として自民党の加藤紘一 元幹事長を中心として「ラーの会」が設立され、ここには民主、公明、社民、国民新党などからの参加もある。

さらにいえば、自民党内には与謝野馨前官房長官、園田博之政調会長代理という、いわゆる「財政タカ派」による勉強会や、小泉―竹中路線を継承する中川秀直 元幹事長が中心の「上げ潮派」による研究会もできている。民主にも同様に、その立場や政策論でさまざまな勉強会ができている。

こうした動きは、たしかに与野党の対話の模索ともいえるが、政界再編への備えとみることもできる。ただ、有権者として困るのは、このようなグループがいく つもできると、いったいどの政党がどのような立場でどのような政策を進めようとしているのか分からなくなり、混乱してしまうということだ。

もっとも、こんなことはいまに始まったわけでもない。自民党はもともと社会主義勢力に対抗するために保守政治家が合同してできた政党だが、全国の多様な支 持母体に実質的な利益をもたらそうとするプラグマティックな共同体として成長してきた。自民党がキャッチオールパーティと呼ばれるゆえんである。

民主党は、1996年の総選挙から導入された小選挙区において、自民という巨人に対抗すべく小勢力が結集してできた政党といってよい。そのDNAは、55年体制の自民党、民社党、社会党までじつに多様だ。民主党の右左のウィングは自民党より広いといわれるゆえんである。

そもそも小選挙区導入の狙いは、A党候補者かB党候補者かそのどちらか1人を選ぶことになれば、それぞれの政党は政策によってその違いを示さねばならず、 投票行動はそのまま政策選び、政権選びになるということである。利益誘導から政策中心の政治、政権交代が起こりやすい政治への転換を図ろうとしたのであ る。

実際、2003年の総選挙あたりから、各党はマニフェストを有権者に示すようになった。マニフェストとは、その政党のビジョンや、それを達成するための諸 政策と具体的な数値目標や方法、実施期限などを示す「政策パッケージ」であり、有権者と候補者の委任関係を明確にする「契約」である。

こうした「契約」を選挙前に提示することは、選挙制度改革の狙いどおりであり、選挙を重ねるたびに、その内容は洗練されつつあるのは確かだ。しかしなが ら、その中身を読み込んでいくと、同じ政党内のさまざまな思惑がモザイクのようにちりばめられており、まだまだ体系性の希薄な政策リストから脱してはいな い。この状態を、党の性格がそうなのだから仕方ない、それにマニフェストをそんなに真剣に読む人はいない、といって放っておいていいものではない。

商品に合わせて政党を再編せよ

いま有権者は政治に何を求めているのか。もちろん、個別的には、職業、住んでいる地域、性別、世代など、それぞれの置かれている状況で異なるだろう。

だが共通するのは、国際的にはグローバル化が進展し、国内的には少子高齢化というデモグラフィーの変化が財政に構造的な変化をもたらしつつあるなかで、日 本が将来的にいかにサバイバルしていくのか、そのために国のあり方をどのようにしていくのかという5年・10年先のビジョンと、その実現に向けた戦略的か つ、整合性のある具体策の提示ではないか。しかも、耳触りのいい話だけでなく、正味の話をしてくれということである。

国力はさまざまな側面で落ちてきているように見える。自分たちの生活がどうなるかも不安である。これにどう対応していけばよいのか、どのような覚悟が必要なのか、それを見通せるようにしてほしいということである。

総選挙はいつになるのか。自民の支持率が上がれば、なにも解散総選挙をする必要はない。逆に下がったら、議席は確実に減るので解散総選挙のモチベーション は下がる。民主の支持率が上がろうが下がろうが同じこと。論理的に考えれば、支持率回復のために総理が代わっても、来年の任期満了まで総選挙はない。

そのあいだにお願いしたいのが、自民、民主ともに、いまのばらばらになっている状況を整理し、自らの旗印を鮮明にしてほしいということである。すなわち繰 り返していうが、国内外の現状認識をしっかり行ない、5年・10年のビジョンを掲げ、それに向けた戦略的かつ、整合性のある具体策をメリット・デメリット も含めて提示してほしいということだ。

そうでなければ有権者は困るのである。自民の旗印がわからない。民主の旗印がわからない。いったいどちらを選んだらいいのか。どっちを選んでも同じではな いのか。仮に選んだとしても、何の説明もなく中身が変わってしまうのではないのか。そんな状況で選挙をしても意味がない。

さもなければ、それぞれの政治信条や政策を軸として、政界を再編してほしいということだ。くくり方が容易でないのは理解できる。外交・安保で一致しても、 社会保障では一致しない。その逆もある。さらに政策分野を増やせば、もはやグループ分けは無理かもしれない。松下政経塾出身者ですらまとまれないのであ る。

冷戦も右肩上がりも終わった。多様な価値観が存在し、政策も複数の問題に同時に解を出さねばならない複雑な連立方程式となった。政党が政治信条や政策でま とまるのは、事実上不可能かもしれないし、有権者も政策のパッケージではなく、アラカルトで選びたい。だが、選挙でそうした選び方はできない。既存の政党 政治はもはや限界に直面している。

これを解決するには、国が膨大な政策分野を抱え込む現在の中央集権体制を道州制などによって変える必要がある。つまり、地方が決定する守備範囲を拡大する ことで国政のディメンションの数を減らすという制度的イノベーションを待たねばならないが、それにしても、現在の政党の状況はあまりにもいびつである。

自民と民主の「保守派」、あるいはそれぞれの「リベラル派」は政治信条的にも政策的にも非常に近いものがあるように見える。縦で割るより、横で割ったほう がすっきりするではないか。また外交・安保についていえば、違いはあっても55年体制時代よりは幅は狭い。とすれば、社会保障や行財政など国内問題へのア プローチの違いで分ければよいではないか。

自民のある政治家は「新党なんて、信条や政策なんかでまとまるものではない。しがらみや馬が合うとか合わないとか、いろんな要素で集まるのであって、簡単 に割り切れるものではない」という。また、民主のある政治家は「やっとここまできたのに、政権奪取が目前にみえるのに、新党結成なんてありえない」とい う。たしかにそれはそうかもしれない。だが、いずれも政党のカスタマーである有権者を無視した話ではないか。いや、国の将来を考えていないということでは ないか。

有権者にとって、政治家同士のしがらみなど知ったことではないし、民主が政権奪取に王手をかけていることなどどうでもよい。重要なのは、どの政党が何を売 ろうとしているのかである。各党がはっきりとした商品のラインアップができないなら、商品に合わせて政党を再編してくれということである。商品が分からな ければ買えないではないか。

郵政造反組で無所属となった平沼赳夫元経済産業相が「新党侍」を選挙前に立ち上げるとか、高知一区から出馬表明している橋本大二郎前高知県知事があえてド ン・キホーテになって新党を結成するとか、いろいろな話がある。彼らにどの程度の求心力があるかは分からない。行き場のない「浪人」だけが集まるか、サン チョ・パンサがついてくるだけになってしまうかもしれない。だが、こうした動きが、ねじれ国会で蓄積された政界再編のエネルギーの起爆剤にならぬともかぎ らない。それに期待したいものである。



さてさて

木曜日, 6月 05, 2008

米国で風力発電が急増へ:「電力網の20%に供給の可能性」も

WIRED VISION

米エネルギー省(DOE)が発表した新しい報告書は、計画段階にある総計225ギガワットの風力発電施設について詳述している。この発電能力は、現在設置されている風力発電施設の能力の13倍にあたり、現在計画中の天然ガスや石炭の発電所の能力よりもはるかに多い。

ローレンス・バークレー国立研究所の研究者で、この報告書(PDF)の共同執筆者であるRyan Wiser氏は、一連の風力発電計画の増加を「並外れている」と評した。

調査対象となった計画のうち、2007年中に設置された風力発電設備の発電能力は5.3ギガワットだが、この数字は、昨年電力網に追加された新たな発電能力の35%に相当する。

風力発電計画の急増の追い風になっているのは何だろう? 風力は化石燃料と比較すると、費用の点で競争力があるうえ、燃料価格をつり上げることになる気候変動関連の法的規制のリスクとも関係ない。

Wiser氏は、ワイアードの取材に電子メールで応え、「風力発電の費用と価格は上昇しているが、化石燃料による発電の費用も上昇している。これらの条件をまとめると、風力発電は依然として化石燃料発電との競争力を保つことになる」と語る。

現在の石炭発電所の多くは第二次世界大戦直後に建設され、今後20~30年のうちに寿命に達すると見られている。これらに置き換えるため、今後数十年の間に、多数の新たな電力源が稼働を開始する必要がある。風力発電は、そうした新たな電力源の相当な部分を占める模様だ。

DOEが2008年5月に発表した別の報告書では、風力発電は2030年までに米国の電力網の20%に電力を供給する可能性があると述べている。

しかし、石炭、天然ガス、水力、あるいは原子力とは異なり、風力は断続的だという点に留意することが重要だ。これは、米国の(古くなった)電力網において、風力発電の割合が増えると、電力需要が高いのに風が吹かない場合に問題が発生し得ることを意味する。

1つの解決法は、米ConsumerPowerline(CPLN)社のような企業が提供している「ピーク・シェービング」だ。CPLN社は多数の大企業と契約を結び、電力網が発電能力の限界近くまで稼働しているとき、不必要な施設を停止するよう要請している。

報告書『風力発電所の設置、費用、業績動向に関する年次報告書:2007年』(PDFファイル)の全文と、スライド形式の概要(PDFファイル)がダウンロードできる。上の画像は概要から引用した。

WIRED NEWS 原文(English)


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へぇとかほぉとか言うのが精一杯だけど、クリーンなエネルギーの話は、是非とも普及させて欲しいと思う。 この分野の成功事例がどうのって話だけでなく、日本の取組が明確になると嬉しいなぁ