民主国軍と非民主国軍の違い
田母神俊雄前航空幕僚長の論文と、彼の一連の言動が発端となって「文民統制(シビリアンコントロール)」という言葉が取り沙汰されている。「前航 空幕僚長の論文には2.26事件のような決起の心が潜んでいる」とか「自衛隊がまた暴走するのでは」という不安を口にする識者もいる。
筆者はこれまで、国際協力の現場で各国軍の活動を取材してきた。スウェーデンの国防軍で軍と文民(非軍人)との共同オペレーションを学んだこともある。民間の軍事専門会社の経営者の知己も多い。軍人と軍を律するものが何か、ということをこの十数年追い続け、意思命令系統をつかさどる人とそれに従う 軍人との両方を見てきた者としては、今回の問題は捨て置けない気がしている。
前航空幕僚長の論文で示された歴史解釈の是非については、既に多くの識者から論考がなされているので、ここでは「文民統制」の定義と、軍を律することに関する筆者の独自指標を述べてみたい。
◇ 文民統制は「意思」と「力」の分離
「文民統制」とは担当する大臣、つまり防衛大臣の意思に全面的に従ってオペレーションも人事も行うという意味である。「文民(シビリアン)」とは、国民のことだ。軍事力の行使を、国民の代表である担当大臣に一任するのである。
なぜ統制せねばならないかというと、「軍」とは「力」そのものだからである。「力」そのものが、その組織を構成する人間だけの企図で行使されるこ とは、はなはだ危険だ。だから、国民の代表が「意思」を担い、軍人が「力」を持つというように、「意思」と「力」とを分離して機能させることで、力の暴走を止め、要所要所でその存在を示す。そして「意思」は、1本の綱で伝達される。つまり防衛大臣の手にのみ握られる。これが「文民統制」の形態だ。
ほとんどのメディアで誤解があるのは、指示を出すのは「政治家」だとしていることだ。すべての政治家の意思に個別に従っていては、オペレーションは進まない。政治家の中でも、「意思」は担当する防衛大臣にある。そして、さらに上層の最高指揮官が総理大臣である。
文民統制の真意は、「政治優先」である。軍人が法律を作成することはないし、オペレーションが法律より優先されることもない。軍人が政治家になったために、太平洋戦争の愚が起きたわけだ。
とはいえ現実には、オペレーションを知らずに法律を作るのは極めて困難で、作成の責任者である大臣は、自衛官から業務の中核をなす知恵を得なけれ ばできないだろう。だからこそ法律の草案を作成する文官も、文官の知恵を基盤に君臨する防衛大臣も、法律や予算案の作成の際に、“制服組”(ここでは軍人 のこと)の意見を聞いている。
昨年秋に問題が表面化した守屋武昌前事務次官の疑惑では、“背広組”(ここでは文官のこと)たる非軍人が、組織の運営もオペレーションでの武器使用の許可は合法かどうかの判断も行っているという現実が明らかになった。つまり、文官が「文民」であるかのような行動を取っていたわけである。これも、文 民統制の曲がった形態であった。
もう1つ、意思をつかさどる総理大臣と防衛大臣が、それに従う軍人に対してなさねばならぬことがあると筆者は思っている。それは、制服を着た自衛官の愛国心を高く保ったまま、士気を高揚させる言葉を発することである。自衛官のみならず、軍人が最も欲するのは地位でもお金でもなく名誉であり、それを 語る言葉なのである。
歴代の総理大臣も防衛大臣・長官も、自衛官の名誉を語るためのまともな言葉を伝えてこなかった。福田康夫前首相に至っては、退陣表明後、自衛隊の 最高指揮官であるにもかかわらず、大事な自衛隊高級幹部会同を欠席した。言葉どころか態度で自衛隊を無視したのである。言葉による自衛隊の鼓舞は、法律には不記載の業務だが、「力」に君臨する宰相に最も望まれる行動である。
◇ 軍人が高い士気を維持できる政治とは
文民統制が取り沙汰されて、改めて筆者は映画「宣戦布告」(東映:麻生幾原作)をビデオで観た。以前、ある陸上自衛隊員が「このような総理大臣がいてくれたら、われらは全員死んでもいい」と言っていたのを思い出したのである。
物語は、福井県の敦賀に潜水艦が打ち上げられ、乗組員が日本に上陸したところから始まった。上陸者の人数も目的も分からぬまま、SAT(特殊急襲部隊)を含む警察の対応では手に負えないと分かり、陸上自衛隊が派遣された。
ところが、手榴弾の使用すら許可をいちいち得なくてはいけない。死者続出。進まぬ事態に、内閣では官房長官の裏切りが始まり、内部から崩壊しそう になる。古谷一行演ずる総理大臣が、最終的には自衛隊の最高指揮官は自分だと腹をくくり、自衛隊に射殺の許可、バルカン砲の使用許可を与えた。
そこに至るまで法律の壁にさえぎられたり、外務大臣の危惧が足かせになったりと、法律と現実との乖離が映画の見せ場になっていた。国家安全保障の有事ですら、国民の命より政権の維持に関心が向くという政治家の在り方にも、警鐘を鳴らしていると感じた。
ところで、制服を着た自衛官が文民統制に従う理由は何か。それは、彼らは自分たちが「力」そのものだということを自覚し、平時には無用だが、有事には自分たちの力が必要だという自負心があるからである。これを裏づけるのが、人権思想と「人々のために」という人道の精神である。
不思議なのは、田母神前航空幕僚長が統合幕僚学校で創設した「歴史観・国家観」講座にこれまで異を唱える文官も大臣、長官もいなかったことだ。創設のための法律が必要なかったために関与をしなかったと彼らは言うかもしれないが、いかにもそれは「縦割り意識」であり、本来の文民統制がなぜ必要かとい う筋をはずしている。
筆者には、今回の事件に関して総理大臣と防衛大臣が他人顔をしていることが、どうにも腑に落ちない。政権への不信任につなげようと本件を利用する 野党の姿勢も、もちろん筋をはずしている。国民の代表たちは、何をすれば彼ら自衛官を律することができるか、本当は分かっていないのではなかろうか。
文民統制の原則は、他の国でもほぼ同様に唱えられている。しかし実施体制が本当に文民統制に適っているかどうかは、兵士への教育プログラムを見れば、おおむね判断できると筆者は考えている。
筆者はこれまでの経験から、「軍」を見る時には以下の4つの指標を当てはめている。実戦に関連する「最新鋭装備」とその運用のための「実戦訓練」、そして、頭脳に関連する「理論教育」と「倫理教育」である。この4つの指標の程度と内容が、文民統制の成否を分けていると認識している。
どの国にも、政治体制や国家予算の規模を問わず、「軍」が存在している。そして、兵士育成のため精一杯国家予算をつぎ込んでいる。自衛隊は軍では ないというものの、それは建前で、有事の際に命を賭して国民と国家を護るために戦うのであるから「軍」であると、筆者は理解している。
◇ 軍を律する教育と装備
ところで「軍」といっても、民主主義国のそれと人民解放軍のような非民主主義国のそれとは、大いに異なる。さらにまた、近年では非正規軍が台頭しているし、民間の企業で軍事に関連する業務を行う組織もある。
そこで筆者は、「軍」を下記のように種類と所属によって分け、教育訓練や装備への重点の置き方を分類してみた。
軍の種類と教育、訓練、装備などの有無 | ||||||
種類 | 所属 | 理論教育 | 倫理教育 | 実践訓練 | 最新鋭装備 | |
---|---|---|---|---|---|---|
正規軍 | 民主国家軍 | ○ | ○ | ○ | △~○ | |
非民主国家軍 | △、○ | × | ○ | ○ | ||
非正規軍 | 武装勢力(armed forces) | × | × | △ | △~○ | |
ギャング | × | × | × | △ | ||
ごろつき | × | × | × | × | ||
民間 | 民間警備会社(PSC) | ×、△ | ×、△ | △ | ×~○ | |
【凡例】 ○:実行している、または所有している △:一部実行している、または一部所有している ×:実行していない、または所有していない | ||||||
表作成:筆者 |
さて、非民主主義国軍と民主主義国軍との違いが鮮明になるのは、理論と倫理の教育にある。それが軍の質を決定づける。
理論とは、地形や地理から作戦を練るといった、いわゆる兵法だ。倫理とは、兵士以外の住民の命を尊重することを中心とする、哲学だ。人権思想はそ の中心となる概念だ。倫理教育を受けた兵士は、現地の人々に人格と人権を感じる。ところが、近年は倫理教育がかえって兵士にダメージをもたらすことが増え ている。というのも、第2次世界大戦後の戦争は、市街戦が多くなったからだ。誰が兵士かの区別がしにくくなったために、非作為によって民間人を攻撃する局 面が増えてしまった。
これに関する微妙な状況についてよく表しているのが、映画「英雄の条件(Rules of Engagement」(2000年、米国)であった。地元民が銃を向けてきたために米軍兵士らが交戦を始めたのだが、少し時間がたって見てみると無防備 な一般人に変身していたという設定で、兵士らの心の葛藤が表れていた。国際協力の現場で出会う軍人たちが、議論の材料に使う1つの映画だ。
米国のイラク帰還兵がPTSD(心的外傷後ストレス障害)に陥るなど、精神に異常をきたす理由は、市街戦で一般人をあやめてしまった自責の念を覚 えるからである。非民主主義国で鍛えられた軍人ならば、感じ得ない苦しみであろう。人権とオペレーションの狭間で、民主主義国の軍は葛藤している。倫理、 人権は、軍にとって目には見えにくいが大きなコストであることは間違いない。言い換えると、民主主義国の軍は、自らあえてコストを負っているわけだ。
最新鋭装備は軍に予算があれば容易に備えることができる。非民主主義国家と民主主義国家との対立が鮮明になりつつある現在も、非民主主義国家同士 で最新鋭の武器兵器を融通し合っている。資源国は国家予算が豊富なだけに、そのような行動をとりやすい。売買される兵器の中に核も含まれているために、欧 米は躍起になってイランやベネズエラなどを抑え込もうとしているわけだ。
非民主主義国の軍は、最新鋭の装備を使いこなすための訓練も怠りなく行っている。最新兵器を使いこなす軍が最強の軍だと信じている。
文民統制がなされた最強の軍とは、上記の項目がすべて○の軍だ。本来、自衛隊はその部類に入る。ただし、残念ながら法律の規制があり容易に武器を使用してはならないことから、存分な働きをするには遠いかもしれない。前述の映画「宣戦布告」はそれを物語っていた。
他方、最悪の軍は最新鋭の装備と実戦訓練が○で他の2項目を重視していない場合である。容易に殺人集団と化してしまうからだ。もちろん文民統制な ど口ばかりで、文民(国民と為政者)自体が人権を知らないのだから、軍と一体化して殺人鬼になり得る。国威発揚だけを教え込まれ人権思想教育がない軍がこ れで、非民主主義国に用心せねばならないと筆者がしばしば主張するのは、ここに理由がある。特に核保有の非民主主義国は脅威だ。
スウェーデンで机を並べた友人である各国軍の軍人らは、自衛隊を「最高に尊敬すべき平和な軍」と称えた。初めは「まさか」と思っていたが、皆が皆 そう言うのであった。田母神前航空幕僚長は、自衛隊に対する世界の賞賛の声を耳にしていただろうか。もし、彼が耳にしていれば、歴史よりも現在の在り方に もっと注視して教育訓練を施していたのではなかろうか。
もしかすると、であるが、航空自衛隊は陸上と違って、敵兵の顔、特に目を見て人格と人権を感じてしまう危険性をひしひしとは感じないのだろうか。 いやいや。非軍人たる民間人が訳知り顔で、陸、空、海、と組織文化を色分けすることはやめよう。国家のために存在することでは自衛官はどこの部隊でも同じ なのだから。そして、相手の目を見てしまったがためにためらいを感じてしまうという、心の葛藤は、民主主義国の軍はどこであれ同様に抱いているものであ る。
文民統制が利いた軍とはコストがかかるものなのである。言い換えると、民主主義国は軍事国家になれない。米国とスウェーデンは軍事産業が国内にあり、納税、雇用、外貨収入を引き受けてくれる。だから軍事大国ではある。
中国の人民解放軍はスーダンなどアフリカに出兵して資源確保を促進して、雇用と外貨収入に貢献している。だから国内で存在が大きく、ますます文民 統制が利きにくくなる。軍事予算を抑えて経済活動に国家予算を振り向けることが貿易と投資を促進し、マクロ経済もミクロ経済も繁栄させる、とは経済の鉄則 である。しかし、中国はいまだ、軍事力の助けを借りて経済発展を遂げている段階のようだ。これではまだ、政治的にも社会的にも軍を抑制する意見が大勢を占めることはないのである。
「憲法改正は望んでいない」。元自衛隊幹部は答えた
陸上自衛隊を最近退職されたある方(仮にA氏とする)とお会いする機会があった。
田母神前航空幕僚長の論文について、現場の自衛官たちはどう考えているのかを知りたく、知り合いの自衛官数人に連絡を取ったのだ。しかし残念ながら、皆忙しくて時間をいただけず、代わりにA氏にお目にかかったのである。
「前航空幕僚長の真意はどこにあるのだろうか」とA氏に尋ねたところ、「それは、私にも誰にも分からない」との答えだった。「それでは、田母神さんとあなたは憲法改正を望みますか?」と聞くと、彼は否定した。 これは従来筆者が知る、自衛官の多数派と同じ意見であった。現行憲法に異存はない。それよりも、彼らだからこそ持っている情報や意見を、公式に具申する 定期的な機会を欲しているようだった。もし田母神さんがいわゆる「男気」というか、「大義のために自分を投げ打つ覚悟」を持っている人だったら、「一肌脱 ごう」と思ったかもしれないのだが…。
◇ 軍政は政策担当の文官に、軍令は作戦担当の制服組に
このコラムで文民統制について書く契機となった、田母神前航空幕僚長の論文。汚職が取り沙汰された守屋前事務次官とは違い、事は「力」そのものの 行き先に関わる。「力」に意思があったことに改めて気づき、不安を抱いた人もいただろう。文民統制を機能させるために、日本はいかなる法律(省令)と運用体制を取っているのかが問題だ。
航空幕僚長の任務について、自衛隊法第9条は次のように規定する。
9条 統合幕僚長、陸上幕僚長、海上幕僚長又は航空幕僚長(以下「幕僚長」という。)は、防衛大臣の指揮監督を受け、それぞれ前条各号に掲げる隊務及び統合幕僚監部、陸上自衛隊、海上自衛隊又は航空自衛隊の隊員の服務を監督する。
2.幕僚長は、それぞれ前条各号に掲げる隊務に関し最高の専門的助言者として防衛大臣を補佐する。
3.幕僚長は、それぞれ、前条各号に掲げる隊務に関し、部隊等に対する防衛大臣の命令を執行する。
つまり防衛大臣への最高の専門的助言者、補佐官である。助言の対象は文官(“背広組”)ではない。
防衛省には「軍令」と「軍政」の2本柱が立っている。いざという時には、自衛官がオペレーションに専念できるよう環境を整えるためである。有事には、他の省庁との調整のような書類を挟んでの調整業務には文官が当たるというすみ分けだ。
「軍令」は作戦担当の“制服組”(自衛官)の領域。ここのトップが幕僚長だ。「軍政」は政治のことだから、政策担当である文官が担当する。このトップは事務次官。陸海空の幕僚長3人と事務次官が防衛大臣を補佐する体制を敷いているわけだ。米国は常に国務長官と国防長官とが同行して3人並んで政務を仕切っ ているが、日本では国防長官に相当する防衛大臣は、閣僚の中でも(失礼ながら)地位は高くない。その防衛大臣の補佐官としてあらゆる決め事に関与したり、 肝胆相照らす関係にあったりするかというと、全く事情は違う。
防衛参事官制度によって、防衛参事官会議で何事も決まるのだが、そこに幕僚長は入ることができないのだ。文官と大臣とで何事も判断してきたのである。しかしようやく、今年8月発表の改革方針によって、新体制になるようである。
つまり来年度以降この防衛参事官制度を廃止して新たに防衛補佐官を任用し、非公式だった防衛会議を公式にするようだ。肝心の現場の声を大臣に伝えるシステ ムが、不安定なのだ。オペレーションを行う権限は“制服組”にあるというのに、彼らの情報や意見が発令に反映されないのは、文民統制というより文民優先。 少し度が過ぎる感がある。
筆者は想像した。田母神前航空幕僚長は、この現状が我慢ならなかったのか? 自分が制服を着ている間に、後輩のために世間と政府に話しておこうと思ったのか?…と。
こうした思いを抱きながら、現場の自衛官に連絡を取ることになり、その結果冒頭のA氏に話を聞くことになったのだ。
地位が高い軍人というのは、表情は明るいが言葉には慎重だ。将校と呼ばれる幹部は20代の時から年長者を部下に持ち、訓示によって相手を唸らせる経験を してきている。名将の言葉が歴史に残るのは、兵士たちが戦いを全うする気力を、その言葉によって得てきたからだ。どの軍でも、軍人は言葉を大事にする。自衛隊幹部は、同期生1000人以上の中から激烈な競争を経て地位を上り詰めてきたわけだから、ふてぶてしいくらい胆力が備わるのも当然である。
◇ 非正規軍には人権教育がない
軍の人材を育成するのは、日々の部隊での訓練と訓示、実戦、昇進レース、そして教育である。これは日本だけではなく、世界のほかの軍でも同様である。成長段階に合わせて試練があり、それを乗り越えた者が他人よりも前に出る機会を得ていくセオリーに国境はない。
前回、 軍を律する文民統制が実際に機能するかどうかは、彼ら軍人への教育プログラムを見ればおおむね判断できる、と書いた。実戦に関連する「最新鋭装備」とその 運用のための「実戦訓練」、そして、頭脳に関連する「理論教育」と「倫理教育」の4つの指標の程度と内容が、文民統制の成否を分けている、と。
各国の政府が設立し保有する軍が、民主国のものか非民主国のものかによって、「倫理教育」と「理論教育」に差異が生まれる。この2つは正規軍であることでは、外交上同じ地位を持っている。
ところが、昨今軍を持つのは政府ばかりとは限らない。これが今日の世界を脅かしている。非政府軍に、この4つの指標を当てはめてみよう。
グルジア紛争は、珍しく国家の正規軍が衝突したが、それですら実際の戦闘はどうやら非正規軍が開いたようである。ソマリア、スーダン、コンゴ民主共和国 などで治安を脅かしているのも、こうした「OAG: other armed group」と呼ばれる、実態不明な非正規軍である。現在世界で平和を脅かしているのは、OAGである。ソマリアでは海のOAGもまた跋扈している。
非正規軍が信用できないのは、倫理教育と理論教育がないからだ。文民統制はおろか、もともと司法がしっかりしていれば必要性がなかった存在である。非正規軍が法の支配が成立しない国で生まれるのには、こうした理由があってのことである。
非正規軍の中には、コミュニティーが自衛のために創設した、自警団のような発生の仕方で誕生した「軍」もある。コソボがその典型例だ。民族のすみ分けが複雑で、小さな地域がそれぞれに防衛手段を持った。とはいっても、AK47程度の装備ではあるが。
村民自身が「軍人」であるため、倫理教育は受けていないが、自分たちのコミュニティーの住民の命を最大に尊重する姿勢は守られている。政治的メッセージ といっても、独立国家の樹立を求めるようなものではなく、ゆるやかな自治、平和なコミュニティーの維持で済む程度であるのが、自警団かどうかの分かれ道 だ。
コソボではNATO軍が武装解除のために武器回収を試みたが、うまくいかなかった。作戦に参加していたドイツ軍の少尉(当時)によると、「1つの村に行 くと、ここにはないけど隣の村にはたくさんあるよ、と教えられる。そこで隣の村に行くと、同じことを言われる。皆、口が固かった。現地の実情は現地人にし か分からない」と語っていた。
読者のコメントの中に、コロンビアの反政府ゲリラの“善行”があった。非人道的な行為は米軍と政府軍の方にこそある、というご指摘だ。筆者が述べたかったのは、システマティックに倫理教育を施す仕組みの有無である。倫理教育はすぐには目に見えないうえに、前回書いたように、非常に軍に負荷をかける。
政権打倒などコストがかかる目標を成就するには、彼らは自軍に倫理を求めただろうか? ただ考えられることは、反政府ゲリラはコミュニティーを大事にし たかもしれない。なぜなら、それが彼らの拠点だから。拠点の住民を守っているという大義名分が必要だったから。そうでなければ、潜伏している隣国からコロ ンビアに越境してきて、姿を隠す場所がなくなる。
◇ 政治体制と軍の民主性は一致せず
政治体制が民主主義だから軍も文民統制が取れているかというと、残念ながらそうではないようである。Rule of Engagement(交戦規定)が徹底されておらず、すぐに発砲すると有名なのがスリランカ軍である。スリランカ軍は英国の旧植民地ゆえに英語も通じる上、政治は民主主義体制。PKOで現地に派遣されていることもある軍なのだが、危険を察知するとすぐに撃つと評判だ。
筆者が見た範囲であるが、パキスタン軍は現地住民からは好かれないし、働き者ではないが、発砲には一応慎重で、装備もまあ整っていた。なぜなら、途上国軍がPKOのために装備を使用するとそのたびに使用料がチャージされて国庫に入る仕組みだからである。
パキスタンでは優秀な人材を吸収するのも軍であり、軍は有望な産業でもある。英語圏の紛争地ではパキスタン軍をよく見かける。筆者も、昼食にカレーをご 馳走になったり栄養失調改善のために寄らせていただいたりしたが、煮炊きをする人間も全て男性で、これでは、現地の社会的弱者である女性に対応することは 到底無理だと思った。
前回掲載した表では、非正規軍の欄に、武装勢力とギャング、ごろつきまで挙げた。テロリストのカウンターパートになったり、あるいは呼応型のテロ行為を自ら行ってみせたりしている人たちだ。
この3者に共通しているのは、政治的メッセージがないこと、しかし武装だけは軍隊並みであること。いや、軍隊以上である。麻薬や人身売買など、違法行為で資金を得て、住民を脅してコミュニティーを牛耳っている。
テロリストと区別しておきたいのは、政治的メッセージが明確にあり、それが独立国家の樹立のような、明らかな領土と主権を求める非正規軍の場合である。筆 者は彼らを「ゲリラ」と呼称してゲリラとテロリストを区別している。取り締まりに当たるのは、テロリストには警察、ゲリラには軍だ。11月27日にインド のムンバイで多数の死傷者を出した事件は、領土と主権を要求せずいきなり一般人を殺傷するのであるから、典型的なテロ事件である。
スリランカのLTTE(タミール・イーラム)や、フィリピンのミンダナオ島でのモロ・イスラム解放戦線(MILF)など、独立を求めて国家主権に挑戦す る「軍」は、筆者は「ゲリラ」と称して、単なる武装勢力とは区別している。LTTEの拠点はスリランカ政府軍によって陥落寸前だ。20年以上も続いてきた 内戦が終わる日が近いかもしれないと、期待しているところだ。テロリストとゲリラの違いについての筆者の所見は、別の機会に書いていきたい。
◇ 資金源、ゲリラ、民間警備会社が揃った内戦
国家予算がない国では、警察官に一丁ずつ拳銃が支給されていても、弾丸が支給されていなかったり、訓練を受けていない、連絡する通信手段がないなど、笑い話にもならぬ国がある。
筆者が滞在したシエラレオネは、その典型例だった。警察や政府軍よりも、反政府ゲリラの方が隣国の政権の実質的な支援を得て武器を揃えていたため、強かっ た。政府を応援する「親政府ゲリラ」も生まれ、親政府と反政府のゲリラが戦いを繰り広げた。ダイヤモンドを原資にしていたことでは双方同じで、同地で取れ るダイヤモンドが「ブラッド・ダイヤモンド」と呼ばれ、2000年にはこれを忌避するキャンペーンも起きている。国際社会の介入によって停戦合意がなさ れ、資金源が途切れるまで、内戦は12年続いた。
さてこの内戦を幇助したのが、実は民間警備会社(PSC:private security company)であった。シエラレオネ政府は、上記の4つの指標に当てはまる訓練を一切受けていない自国の軍隊の限界を感じて、南アフリカのPSCに代 理の戦闘行為を依頼した。ゲリラもまた、同様にPSCを雇った。ところが、PSCは支払いが途切れるとさっさと戦闘を中止し、本国に帰ってしまった。これ が2度、あったのである。
戦争を終わらせるために雇ったPSCが、戦争の激化をもたらした。敵に対する容赦のない戦いぶりといい、人権思想が後に大いに疑われた。このPSCの1 つは、Executive Outcomesといい、メディアでずいぶんと批判され、後に解散してしまったが、これを契機にPSC業界でも議論が沸き起こった。そして、「兵士以外の 一般人を殺傷しない」「防衛に徹する」など、Code of Conduct(行動指針)を設けるPSCが米国と英国で相次いで誕生した。1カ国での失敗が軍事の現場に大いなる変化をもたらした事例として、シエラレ オネの内戦は歴史的な意味がある。
しかしPSCもまた、恒常的に倫理教育を授ける企業はどうやら少ないようだ。“入社”する前に軍人として教育を受けているからと、簡略化している傾向が ある。先進国ではない国から“入社”した元軍人が、「security officer」として配置されたとすると、仕事を発注した方は不安ではなかろうか。いや米国のPSCにすら、筆者は不安を感じなくもない。副社長やオペ レーション・マネジャーの肩書きを持つ人さえも、きちんと議論ができない、といったこともある。
読者からご指摘があったアブグレイブ収容所は確かに、およそ先進国が行っている行為とは思えない悲惨さであった。予備兵や自発的に手を上げた兵士を、十分な教育プログラムを施さぬうちに戦場に送り出し、雑な戦いをしていたのかと推測する。
また、収容所の監理を預かっていた民間警備会社がずさんな体制を敷いていたうえ、社員教育も行っていなかったのではないかと考えている。軍費削減のために 大胆に業務の外注をしすぎたのではないか。軍の質を決めるのは人材だ。ラムズフェルド国防長官(当時)は、人材に対して費用を惜しんだ。コストはかけるべ きところにかけねば、取り返しがつかない。
◇ 個性を重んずる、現代における教育訓練の方針
海外の現状について長く書いたが、話を自衛隊に戻そう。
筆者は、陸上自衛隊の仕事には「コミュニティーサポート」が 含まれていると認識している。地域住民が平常の生活を送れるよう支援するという意味だ。筆者が英国軍やアイルランド軍の士官と話していた時、彼らの専門性 の中に「コミュニティーサポート」があると知ったことに由来している。これこそ、まさにこれまで自衛隊が国内で行って来た役割である。
そして「コミュニティーサポート」の概念は、国際協力の現場でこそ、大いに実感されるべきだ。地元の人々を護るために軍が派遣されるのだから。いまや、 幹部候補生として自衛隊に入隊する若者の約半数は、国際貢献と災害救助を志望動機にしている。防衛大学卒業生のみならず、一般大学の卒業生もずいぶん入隊 するようになり、学生も多様化してきている。
筆者は1年前に、陸上自衛隊の幹部候補生学校を取材した。「軍人に育てること」「オフィサーに育てること」の2つを目的に、春に大学を卒業したばかりの 300人超を、戦闘戦技、戦術、国際法など法制と国際関係、戦史、語学、体育などを、座学と実践にて教えている。防衛大学卒業生ばかりではなく、一般大学 を卒業した人も増えているようだ(参考記事はこちらhttp://blog.5012.jp/nikkeiwoman/essay2/archives /2007/12/post_22.html)
そこでは、驚くことに「議論」と「個性」を重視するという。ゴールは同じに与え、そのためのアプローチを競わせることに教育の主眼を置いているとか。昨 今の国家安全保障の現場では、従来の想定を超える事態が起きており、現場で即応できる体制を築かねばならない。そのためには、いつも通りのアプローチを繰 り返す軍では不足なのである。
どうやら、思いもよらぬ作戦、外部の助太刀を得意とするような新しい軍人を目指さねばならないと、校長は考えているようだ。教官たちは皆、筆者に「一般 大学卒の個性をつぶしていないだろうか」と案じた様子で尋ねるのである。自衛隊に「モノカルチャー」を想像していた筆者だったが、この時に自衛隊への興味 はいや増した。
実は自衛隊の幹部たちは皆、現役の3分の1以上を教育訓練で過ごしている。この幹部候補生学校を卒業した後、内外の一般大学で非軍事分野での修士課程、 中堅幹部としての哲学、見識を養う内部の学校、担当する武器の操作、所属連隊の構成員としての訓練等、成長と役割に応じてそのつど受ける。一貫して、シビ リアン(国民)からの付託を受けて自分たちの任務があることを教官に当たる先輩から教え込まれている。
世界各地で、国家対国家という戦争の形が崩れつつある。日本の戦争は、もしかすると、亡命を装って侵略されることから始まるかもしれない。海上保安庁が戦端を開く可能性も否定できない。
どんな形で戦争が始まるのか、想定できない。肝心なことは「今が有事だ」と判断できる内閣であること、国民に配慮したオペレーションを実施する防衛体制を整えておくこと、つまり文民統制を敷いておくことである。
そして筆者は、軍の役割を知る者として、美しい人道と人権の思想が、軍に他方で苦しみをもたらしていることを、心に留めねば、と思っている。
」
この人の言う「名誉」とやらを確保するためには、自衛官は何やってもイイのか?
国のためには死ねるって純粋さが、如何に危険なのか、前の世界大戦で実感してないのか? 存在意義について、きちんと議論せずに、何となく「そこにある」的な位置付けのまま放置した政治の責任を棚上げするつもりは毛頭ないが、議論する前に、かかる思想をもった制服側の「権力」の存在を、このまま放置して良いのか!というのが、最も問題とされるべきじゃないのか?
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