木曜日, 9月 28, 2006

【FT】陽も息子もまた昇る 長州から安保そして安倍家二代

その後の展開を誰が予測し得たか?ってトコかな....
まぁここの坊ちゃんにも、日本国首相は荷が重かったってことにしとこか....。

フィナンシャル・タイムズ

(フィナンシャル・タイムズ 2006年9月15日初出 翻訳gooニュース) デビッド・ピリング

The son also rises. 息子はまた昇る。

 日本で57人目の総理大臣にとって、何より鮮やかな幼いころの思い出といえば、祖父の膝に座っている自分だという。祖父とは、37人目の総理大臣 だった岸信介のこと。安倍晋三は当時5歳。日本は連日、激しいデモの嵐に揺さぶられていた。東京・渋谷の閑静な住宅地にあった岸の自宅周辺を取り囲んだデ モ隊は、幼い晋三を膝であやす優しいおじいちゃんを、口々にののしっていた。

1960年のことだ。岸は1951年の日米安全保障条約を改定しようとしていた。新条約は、正式な軍事力を奪われた日本に対する、米政府の防衛責任を拡大 したものだった。日本の左翼は、日本が太平洋に浮かぶ米国の不沈空母となることを嫌い、日本が中立国になることを望んでいただけに、この安保改定を嫌悪し た。そして約1ヵ月にわたる激しいデモ闘争が続き、少なくとも500人が負傷した(訳注:東大生・樺美智子さんがこの年6月のデモで死亡している)。

岸邸前のデモ隊は「安保反対」を叫び続けていた。安倍の友人によると、幼い晋三が「あんぽ、はんたい」とデモ隊のまねをすると、岸はニコニコ笑いながら、 条約は日本を守るためのものでデモ隊は間違っているんだよと諭したという。そして晋三は「安保賛成」と言うよう、親に教えられた。

安倍(「Abe」は「あ・べ」と発音する)はこの場面を、今夏に出版された著書「美しい日本へ」で紹介している。日本の首相を選ぶのは政権与党で、実質的 には自由民主党だ(過去半世紀の間、自民党が野党に転じたのはわずか11ヵ月間)。安倍の首相選出は国民の意見を直接反映したものではない。このため安倍 は、自分の考えを国民に知ってもらおうと、この本を出版したのだ。

安保改定によって祖父は日本の「国益」を守ろうとしていた。安倍はそう解釈している。そしてこの「コクエキ」こそが、安倍の政治信条の中核をなすものであって、安倍政権の基本路線を理解するカギとなるだろう。

日本の安全保障にとって1960年の新日米安保条約はなくてはならないものだった。安倍はそう主張する。占領下の日本が独立を回復した1951年に押し付 けられた安保条約は屈辱的な内容のものだったのに対し、新条約は日本にとって前より有利な内容だった。岸は激しい反対を押し切って安保改定を実現したが、 その代償は大きかった。大混乱する国会で安保改定を強行採決した後、岸内閣は総辞職したのだ。

安倍家と親しい三宅久之は「安倍さんはそうやって教育された」と語る。晋三少年は祖父の膝の上で、現実主義政治の手ほどきを受けたのだという。

このエピソードが意味するところは大きい。まず、安倍は首相になるために生まれてきたのだということ。安倍がよく「貴公子」「プリンス」と呼ばれるのに は、それなりの理由がある。安倍は生まれたときから安倍家の家業、つまり「政治(ステーツマンシップ)」の空気を吸って育ってきたのだ。安倍の親類で国の トップに上り詰めたのは、岸だけではない。岸の辞任からわずか4年後には、岸の弟で安倍の大叔父にあたる佐藤栄作が首相となり、8年近く務めた(岸信介は 「佐藤家」に生まれたが、父の実家・岸家の養子になっている)。岸の娘と結婚した晋三の父・晋太郎が首相になっていれば、その時点で一族にとってハットト リックだったのだが、晋太郎は首相への志半ばにしてすい臓がんで死去している。

安倍晋三の友人の多くは、彼は総理大臣になるべくしてなるのだと話す。これまでの道筋が実に順調だったのは、宿命以外の何物でもないと。名家出身の安倍は、人望厚かった父が病魔に邪魔されてしまった当然の権利を、わがものにしているにすぎないのだと。

安倍と旧知の中村慶一郎は「父は夢を果たせなかった。このことは安倍に重くのしかかっている。首相になることが自分の運命だと、安倍は強く信じている」と話す。

名門の血を引く安倍は、その点で小泉純一郎と大きく異なっている(政界に地殻変動が起こりさえしなければ、あるいは本物の大地震さえなければ、自民党は安 倍を小泉の後継者に選ぶし、その数日後に国会が安倍を首相に指名することになっている)。安倍は9月21日に52歳となり、過去65年で最も若い総理大臣 となる。

政治家3世という意味では、小泉も同じだ。しかし安倍の祖父と違い、小泉の祖父はとび職出身で、全身に昇り竜のいれずみを入れた人物だった(日本でいれず みといえば、ヤクザを連想することが多い。上流階級とはあまり縁のないものだ)。安倍の総裁選出は早くから約束されていたようなものだが、小泉の時は仰天 した人も多かった。

岸の膝で安倍が学んだ、もう一つのこと。それは、おじいちゃんが戦争で何をしたのか、だった。岸は1936年、満州国の高官に就任。1941年には、東条 英機首相の戦時内閣に商工大臣として入閣した(東条は後に、アジア版ニュルンベルク裁判の東京裁判で戦犯として有罪になり、絞首刑に処せられている)。

岸は1945年、戦犯容疑者として進駐軍に逮捕され、3年間収監される。起訴はされなかったが、公職追放令が1952年に廃止されるまで、政界から遠ざかっていた。しかし公職復帰がかなうと、岸が首相になるまでに5年とかからなかった。

祖父の思い出に「戦争犯罪者」という言葉が影を落としている。そのことを安倍は不満に思っている。そして保守派のひとりとして安倍は、日本のアジア侵攻は 西洋の帝国主義よりもひどかったという考えや、第二次世界大戦中の日本は比類なく残虐だったという考え方に、疑問を抱いている。日米同盟を強く支持しなが らも、安倍は、東条たちが断罪された東京裁判は米国によるやらせ裁判だったとして、その正当性を疑っている。

日本が戦った戦争は、それほど不名誉なものではなかったという信念。それが、安倍が靖国神社を参拝する理由のひとつだ。靖国神社は日本の愛国心の象徴であ り、日本にひどく侵略された中国は靖国を嫌悪している。靖国神社は、東京の喧噪(けんそう)から隔絶された、優雅で静かな桜の名所だ。天皇の名の下に戦っ て死んだ250万人が奉られている。そして東条をはじめ、「A級戦犯」として有罪になった日本の戦争指導者14人が合祀されている。小泉は毎年の靖国参拝 でアジア各国の怒りを買う一方で、日本の侵略行為については遺憾の意をはっきり表明してきた。しかし安倍はそこまではっきりとは発言していない。

 戦後の取り決めで巨額の賠償金支払いを免れた戦後日本は、経済成長を実現することができた。しかし一方で日本は「強い国になる」という、明治維新以来の 野望を実現できなくなり、日本はその実力を出し切ることなく、過去60年を過ごしてきた。日本の憲法は、ダグラス・マッカーサー将軍率いる占領軍の、理想 主義的な若いアメリカ人たちが執筆したもので、日本の戦力保持や戦争行為を禁止している。

その憲法の現行解釈では、日本は自ら進んで、集団的自衛権を放棄していることになっている。そのため、日本は安全保障を米政府に全面依存しているが、たとえばもしも東京湾内で米軍艦が北朝鮮のミサイルに直撃されても、日本は何も手助けできない。

外交官出身で保守系論客の岡崎久彦は、「安倍のブレーン」と呼ばれている。その岡崎によると、安倍が総理大臣としてまずやることのひとつは、集団自衛権放 棄を廃止することだという。「(集団的自衛権の行使禁止は)憲法に明記されているわけではない。この憲法解釈は過去50年も続いてきたが、私や安倍に言わ せれば馬鹿げたものだ。変えるのは簡単だ」と岡崎は言う。

筆者は、東京・虎ノ門にある岡崎の事務所を二度ほど訪ねている。ワシントンにおけるキャピトル・ヒルに相当する日本政界の渦の目、永田町からそう遠くない 場所にある岡崎の事務所には、駐タイ大使時代に集めた骨董陶器があちこちに詰め込まれてる。陶器のほかには、書の掛け軸、白黒写真、そして安倍と小泉が共 に尊敬するマーガレット・サッチャーの伝記がある。岡崎は薄手のコットン・ジャケットにゆったりしたズボンという学者風のカジュアルな装い。そして彼は、 自分のことを情報将校のようなものだと考えている(日本では軍人としての情報将校の存在は禁止されている)。有用な情報を集めて解釈するのが自分の仕事 で、かつ有用な情報の95%はただで手に入るのだと岡崎は言う。事務所で二度、取材させてもらった際、岡崎は目についたあの記事やこの新聞論評を探しなが ら、ひっきりなしに立ったり座ったりしていた。

安倍の生まれや育ちがその人物にどう影響しているか。これについて岡崎は「安倍は支配階級で生まれて、自分は国家に仕えるべき存在だと自覚している。彼に とっては『品格』が重要で、尊敬に値する人間になることと、尊敬に値する国家を作ることが、『品格』の大事な要素なんだ」とまとめる。

岡崎によると、安倍を大きく突き動かす要因がもうひとつある。それは安倍家のルーツがある地元の影響だ。安倍は東京で生まれ育ち教育を受けたが、政治家と しての血統は日本本州の西端にある山口県に脈々と伝わるものだ。父・晋太郎は政治家としてのキャリアを山口で築き上げた。1991年に父が亡くなると、安 倍が下関の選挙区を受け継ぎ、圧勝を続けている。

山口はかつて長州藩だった地域の中心にある。長州とは、250年におよぶ徳川一族の支配に対して1867年に反旗を翻した4藩のひとつだ。徳川家は今の東 京から、世界から閉ざされた国、武士が治安維持にあたる国家を統治した。その徳川の最後の将軍が政権の座から追われたのを機に、日本は250年にわたる鎖 国政策を止め、現代的な工業化を開始する。倒幕派が擁した天皇のもと、新しい元号は明治となったため、この革命は明治維新と呼ばれる。次々に交代した複数 の幕府体制のもとで政治から隔絶され、全くの象徴的な存在となっていた日本の天皇が、これで数百年ぶりに主要な立場を占めるようになったのだ。

倒幕派による革命のきっかけとなったのは、1853年の「黒船到来」だ。米国のマシュー・ペリー提督は武力を誇示する砲艦外交で、多くのアジア諸国と同じ ように開国するよう、日本に求めた。そうして日本相手に自由貿易と、後に遺恨を残す「不平等条約」を押し付けたのだ。徳川幕府は日本人に対し、外国人との 接触を厳しく制限していた。そのせいで日本では、戦争術を含めた新しい技術を習得するのが難しかった。明治政府の指導者たち、特に長州出身のリーダーたち は、野蛮な外国人の魔手から日本を守るには、開国し、社会を変革させなくてはならないと決断した。自分たちの敵を良く知ること。これが彼らの行動指針と なった。

「安倍の後ろには、長州の伝統がある」と岡崎は言う。「安倍は自分の地元や県だけでなく、国全体のことを考えている。長州人は日本の国益というものを常に考えている人たちだ」

国益こそ、安倍の政治人生における主要テーマだ。安倍が国中にその名を馳せたのは、2002年。北朝鮮の金正日に真正面から立ち向かい、日本の誇りを取り 戻した人物として、一躍有名になった。その背景にあったのは、1970年代から1980年代にかけて多くの日本人が謎の失踪をとげた一連の事件。10代の 若者を中心に数十人が海岸付近などからさらわれていったが、日本政府は長年にわたり、北朝鮮スパイによる拉致だという噂を否定していた。

2002年9月、小泉首相による異例の平壌訪問に、当時の内閣官房副長官だった安倍は同行した。この時の首脳会談で金正日は、自分の国が確かに日本人を拉致していたことを認め、被害者5人が生きていることを明らかにしたのだ。

下関の安倍事務所には、当時47歳だった官房副長官がそれからどういう経緯で小泉の後継者となるに至ったのかをよく表す、一枚の写真が飾ってある。大きく 重厚なテーブルで小泉と金が、日朝国交正常化への道筋を示した平壌宣言に署名している写真だ。両国政府の関係者が両首脳の近くで控える中、安倍はひとり テーブルから距離を置き、目の前で展開する不愉快な事態に顔をしかめている。

平壌でのことの進み方が安倍には不満だった。昼食時に(日本代表団は東京から弁当を持ち込むほど、両国間の空気は冷えきっていた)安倍は小泉に対し、金に 謝罪を求めるべきだと主張。金はこれに同意した。当初は短期間の予定で拉致被害者5人が日本に「一時帰国」した時、このまま日本に残るべきだと主張したの は安倍だった。

北朝鮮に残した子供たちや夫と引き離された形になった拉致被害者を日本が「再拉致した」と、当初は非難された。しかし安倍はこれを機に、日本のために北朝 鮮に立ち向かった男として評価されるようになる。北朝鮮に対する制裁発動を求め、ミサイル防衛システム計画を後押しする安倍は、日本の国益を体現する存在 となった。つまり、安倍は英雄になったのだ。

 戦後日本は「国益」という考え方を、全面に主張してこなかった。これには理由が二つある。戦争中の出来事を恥じている敗戦国・日本が、外交力をあ からさまに発揮するよりも経済成長を重視してきたというのが、まず一つ。国の安全保障を米国に依存する日本の「外交政策」は、ワシントンが決める内容を丸 写ししたものだった。

第二に、戦後日本で政治とはイデオロギーの問題ではなくなり、いかに金を確保するかがテーマになった。地元の選挙区にいかに予算を落とすか。政治家はその 技術をどんどん完成させていったのだ。時の総理大臣が雪国・新潟の地元まで新幹線をつなげた、というのは有名な話だ。政治にとって大事なのは国益ではな く、地元利益だった。

しかしその仕組みは、バブル崩壊で資金繰りが苦しくなって以来、破綻しかかっていた。また小泉政権の5年間が、そのシステム打破に一役買った。小泉政権の 下、自民党は農村部だけでなく都市部の票に支えられている政党に変身。おかげで、地方の「顧客」の要求に、政策を沿わせる必要が前ほどなくなったのだ。

地元よりも国が優先するという考えは、日本のどこよりも長州に深く流れているのかもしれない。安倍の政治思想と長州の歴史があまりにもピッタリ合致するので、筆者は現地に行ってみて安倍のルーツを探ることにした。

訪れたのは、夏の盛り。台風一過の空には、きれぎれの雲がわずかに浮かんでいるばかり。早朝の涼しさが、本格的な暑さに追いやられようとしている、そんな 時に到着した。同行してもらうのは、安倍の友人で選挙活動を支えている的場順三。事務方として長年、政治の裏側から影響力を発揮してきた人物ならではの自 信をたたえている。穏やかな外見の的場は71歳だが、実年齢よりははるかに若い体格と体力の持ち主だ。田んぼの間を縫って車を走らせ、蝉時雨の響き渡る山 間に入っていく間、的場は私に歴史の講義をしてくれた。

長州について、そしてもしかしたら安倍について、まず第一に知っておくべきこと。それは、彼らの決意がいかに揺るぎないものか、だという。徳川家は 1600年に関ヶ原の戦いで毛利家を破り、新しい封建国家を確立した。権力は現在の東京である江戸に移った。そして毛利家は領地を減らされ、藩の中心を本 州西端の萩に移す羽目になった。萩は江戸から遠く離れた海岸部の町で、徳川体制にとって何の脅威にもならなさそうな場所だ。私たちはそこへ向う。

「長州では、重臣たちが新年に集まり『今年は倒幕の機はいかに』と藩主にお伺いするのが毎年のならわしだった」と的場は説明する。「家臣に問われ、藩主が 『時期尚早』と答えるのが決まりだった」 しかし関ヶ原の戦いから250年以上たち、日本が野蛮な外国の「夷狄(いてき)」の脅威にさらされたとき、長州 の家臣たちはようやく、徳川に反撃する時がやってきたと判断したのだった。

明治維新という反乱を成功させて以来、山口県となった長州は(安倍の前に)7人の総理大臣を輩出している。ほかのどの都道府県よりも多い数だ。安倍の祖 父・岸信介と大叔父・佐藤栄作のほかに、5人。明治政府を作った「反乱者」たちが制定した立憲君主主義のもと、1885年に総理大臣となった伊藤博文も長 州出身だ。しかし総理大臣にまで上りつめたどの長州人よりも、はるかに大きな存在だったのは、首相になるどころではなかった、吉田松陰その人かもしれな い。日本以外ではあまり知られていないことだが、作家ロバート・ルイス・スティーブンソンは吉田松陰について、民族国家建設に松陰が果たした役割は偉大 で、イタリアのガリバルディと同じくらいに評価されるべきだと書いている。

松陰は日本を外国の侵略から守るには、日本が銃器製造から社会の仕組み作りに至るまで、あらゆる実用技術を西洋から学ぶ必要があると確信していた。自分の 使命を確信していた松陰は、鎖国の禁を破ってまで外国人と接触しようとした。江戸沖に停泊中だったペリーの「黒船」まで舟を漕ぎ、自分を米国に連れて行く ようペリーを説得しようとしたのだ。しかし密航を拒否された松陰は檻に入れられ、萩へ送り戻される。釈放された後、松陰は小さな私塾を主宰する。その私塾 が、私たちの旅の最大の目的地だ。明治の元勲となった多くの若者が、大きな志を抱いた場所。それが、吉田松陰のこの松下村塾だった。

松陰の弟子のひとりに、高杉晋作がいた。高杉は1867年に28歳の若さで死亡したが、その彼も、歴史に大きな影響を与えた。高杉は激しい攘夷論者だった が、松陰と同様、野蛮な外国人を追い払うために日本は現代国家になる必要があると考えていた。武士階級出身の高杉による最大の改革とは、武士以外の者が武 装することを禁じる封建社会の掟を、打ち破ることだった。高杉は武士以外に武器を持たせ、戦闘集団を作った。農民や町民を集めたこうした戦闘集団は、徳川 幕府が率いた武士軍団よりも遥かにプロフェッショナルで、倒幕勢力の強力な武器となった。

安倍晋太郎と息子・晋三は共に、高杉晋作から「晋」の一字をとっている。日本の首相と、日本の近代軍隊の創設者・高杉晋作との間には、親密なつながりがあるし、さらには高杉の師であり、民族国家・日本の思想的な父だった吉田松陰とも、安倍はつながっているのだ。

私たちは、ほこりっぽい庭に囲まれた松下村塾の跡を訪れる。わずか数畳ほどの幅しかないこんなに小さな木造の建物が、日本の歴史にどれほど大きな影響を与 えたか、にわかには理解しにくい。同じ敷地内には小さな蝋人形館があり、松陰が弟子たちに講義する場面などが再現されている。そのほか、山口出身の総理大 臣7人の蝋人形も並んでいる。着物姿の岸信介や、紺色のピンストライプスーツでこわばった様子の佐藤栄作もいる。「もうすぐ8人目が並ぶよ」と的場が言 う。

安倍の支援者数人が集まって、魚料理で有名な市内の料理店に落ち着く。安倍もお気に入りの店なんだという。店内は、公営プールみたいな雰囲気だ。大きな生 け簀があって、その周りの畳に座卓が置かれている。生け簀の中にはウナギやカレイやヒラメが泳いで、網から逃れようとしている。私を招いてくれた皆さんは 実に上機嫌。この日は8月20日。安倍が自民党総裁に選ばれるまで、残すところあとちょうど1ヵ月となったからだ。「前祝いをしましょう」と的場は、ビー ルのコップを掲げた。

乾杯を合図に、地元でとれた鮮魚が次々と運ばれてくる。生ダコのブツ切り。ヒラメの薄造り。箸に負けないほど長くてぷりぷりした海老。クリーミーなオレンジ色をしたウニの山盛り。それから天ぷら。川魚の丸焼き。ごはん。みそ汁。

素晴らしいごちそうをいただきながら、安倍の組閣人事が話題になる。首相としての初訪米がいつになるか。あるいは、小泉政権との冷えきった関係にへきえきとした中国が、政府首脳の東京訪問に合意するかどうか。話題は尽きない。

首相になるだけの用意が、安倍にはあるのだろうかという話になった。政治家生活30年の父と違い、安倍が政治家になってからまだ13年。党内の主要ポスト は務めてきたが、外務、財務、経済産業といった主要閣僚ポストの経験はない。自分はそういう家、そういう運命のもとに生まれたという意識が安倍を突き動か してはきたが、本人にもためらいはつきまとっていた。父・晋太郎が1982年に外相になったとき、安倍は神戸製鋼に勤めていた。退職し、父の秘書として政 界入りをついに決意するまでには、父の求めを何度か断っている。昨年10月に官房長官に任命された時(小泉首相が安倍を後継者と見なしていることが、これ で示唆された)でさえ、安倍には迷いがあったと言われている。

 岡崎をはじめとする安倍の友人たちが、今回は年長者に譲って次回を待ったらどうかと助言したことも、安倍の迷いを大きくした。自民党は来年7月の参院選で苦戦が予想されており、もし敗北すれば、時の首相が引責辞任する羽目になるかもしれないからだ。

しかし安倍家の人々の中では、がんと診断される前の父・晋太郎が首相の座をためらい、機会を他人に譲ってしまったことが、記憶に深く刻み込まれている。先 代の支援者だった三宅は、筆者にこう話した。「安倍晋三の母、洋子さんは、晋太郎の妻だったことよりも、岸の娘だということを誇りにしている。晋太郎が総 理になり損ねたとき、洋子夫人は、夫はもっとがんばるべきだったと悔しがった。洋子さんは息子・晋三に『チャンスはつかみなさい』と教えていたという人も いる」

しかし今、魚料理の並ぶ卓を囲んでいる面々は、これに同意しない。安倍は、母親にかりたてられてきたわけではないだろうと。彼らが言うには、安倍は自分自 身でゆっくりと自分の意志を鍛えてきた。自分に与えられた運命と正面から向かい合うべき時がやって来たと、自分で自分を説得してきたのだという。ある政界 ウォッチャーによると、これまでの安倍はいつも自分を「私」や「僕」と呼んでいたのが、最近になって「俺」を使うようになった。より強面イメージのある 「俺」という自称は、権力の座につく心構えが安倍にできた印だと言うのだ。

筆者が初めて安倍を見たとき、安倍は桜の木の下に立っていた。記念撮影を求める中年女性の集団に囲まれていた。小泉と同じで、安倍は「かっこいい男の人」 なのだとされている。しかし真黒な髪をきちんと整え、厳しいけれどもどこか少年ぽさを残した安倍の見た目は、エルビス・プレスリーになりたかった上司とは 違う、もっと正統派のルックスだ。

これは2003年4月のこと。その場の注目を集めていたのは安倍で、そのこと自体がとても印象的だった。というのも、毎年恒例のこの花見会は小泉首相の主 催で、主役は官房副長官ではなく、首相のはずだったからだ。しかしこの時、首相の支持率は一時的に低迷していた。記憶に間違いがなければ、桜は咲いてな かった。それは実に象徴的なことに思えた。首相の花見会は、花のタイミングを計り損ねてしまったのだ。天の祝福も配剤も、安倍に移りつつあるように見え た。

それからも様々なことがあり、色々な浮き沈みが続いた。小泉首相が国会を解散し、続く選挙で自民党史に残る大勝利を果たしたのは、花見から2年後。しかしその間も、小泉の後継者は安倍に違いないという噂は、途絶えることがなかった。

次に私が安倍を近くで見たのは、インタビューの席。昨年4月のことだ。ばたばたと活気ある党本部に向かった私は、革張りの本がずらり並ぶ部屋に通された。 安倍は、紺色ブレザーに合う色のネクタイという、いつもながらの服装だった。ヨットの船長さんみたいだな、と思ったのを覚えている。

そのときの主な話題は、靖国神社だった。安倍は、首相による例年の靖国参拝について、総理には参拝する権利があるとさかんに弁護していた。安倍の物言いは 直接的で、中国に「タカ派」呼ばわりされるだけのことはあった。「中国は信仰の自由を理解できないから、我々を非難している」。この時、安倍はそう言っ た。

総理が靖国参拝を止めれば日中首脳会談を再開してもいい(小泉の任期中、結局再開されなかった)という中国側の言い分について、私が繰り返し尋ねると、安 倍は怒りをあらわにして、「靖国神社は日本の国内にある。自分たちの領内にある場所に総理大臣が行ってはいけないだなんて、そんな馬鹿な話があるか」と声 を荒げた。「交渉の余地がないことを理解すれば、向こうは文句を言わなくなる」と。

日本は、武力をちらつかせて威嚇しているわけではないし、右傾化しているわけでもない。安倍はそう主張した。日本はただ単に、60年におよぶ敗戦国症候群 から抜け出て、普通の国になろうとしているだけだと。「これからは、自分たちの国益を主張していかなくてはならない」と安倍は言った。これこそが、安倍内 閣の主要テーマとなる。

安倍のこうした物言いのおかげで、総理大臣には向いていないのではという懸念が数カ月前、自民党内だけでなく、経済界でもさかんに取りざたされた。日本の 最大の貿易相手は今や米国を抜いて中国。日本経済は中国に大きく依存しているのだ。小泉政権に続いてさらに今後何年も中国政府とこじれた関係が続くのは、 日本にとって困ったことだと言う意見は多かった。

かつては小泉に近しい盟友だった加藤紘一は、安倍が、過激な愛国主義や歴史修正主義を支持しているのではないかと心配している。靖国参拝を批判し続けた加 藤の自宅は先月、右翼主義者に放火されて全焼した。加藤発言への怒りが、犯行の動機に関係していたとされている。犯人は加藤宅に放火した後、切腹しようと して失敗している。放火事件から数日後、「この手の愛国心は、指導者がいったん火をつけたが最後、鎮めるのがとても難しい」と加藤は私に話してくれた。

しかし総理就任が近づくにつれて、安倍は中道寄りに自分の立ち位置を修正している様子だった。今年4月に会ったとき、安倍はすでに官房長官という露出度の 高い役職を与えられていて、実にミニマルで奇妙に美しい首相官邸にいた。前回の取材から1年。その間に安倍は明らかに、自分は総理大臣になるのだという考 え方を受け入れていた。前回のインタビューの席に、安倍はひとりでやってきた。しかし今回は、記録係の側近数人を引き連れてさっそうと現れた。前よりも明 らかに自信に溢れていたが、礼儀正しく穏やかな口ぶりだった。

経済について尋ねるのが、今回の私の目的だった。安倍は基本的に小泉路線を踏襲し、民間が大きな役割を担う自由経済を重視していると話した。しかし安倍が もっとも熱弁を振るったのは、税制についてでも規制緩和についてでもなく、総理大臣になるには経験不足ではないかという私の質問に対してだった。日本はい い加減、年功序列崇拝を止めなくてはならない。安倍はそう主張した。「序列を乱しさえしなければ、世界は平和になるなんていう考えを、日本人は大事にしす ぎている」

中国については、一年前の熱い調子とは打って変わって、強い決意を持ちつつも物わかりがいいという、バランスの良さを披露。「両国とも、経済的なつながり の恩恵を受けている。そのことはお互いに分かっている。両国とも互いに、経済のつながりを大事にするべきで、この関係を壊してはならない。ということは、 対話を続けるということだ。首脳レベルで話し合い、一歩前に進むよう、私は中国に促したい」

これまでのスタンスを部分的に修正する(安倍はこれを「譲歩」だなどとは絶対に認めない)用意があるかもしれないという、そういう兆候さえ見えた。小泉は 首相就任前の選挙戦で「毎年、靖国を参拝する」などとその場の勢い的な公約をしたが、安倍はそこからは距離を置いた。真意は分からせないように計算されつ くした物言いで、「靖国神社を訪れると宣言するつもりは全くない」と言ったのだ。

安倍は実はこの取材のわずか数日前、内密に靖国を訪れていたのだが、それが明らかになったのは数カ月後。マスコミの大騒ぎにさらされた小泉首相の靖国参拝 と、安倍の秘密の参拝は実に対照的で、一つの可能性を示していた。安倍は今後そうして、自分自身の信念に忠実でありつつも、政治的火種としての参拝問題に は水をかけてしまうのかもしれない。

安倍は、総理大臣になるために生まれてきたのかもしれないが、総裁選出馬をついに公式に表明したのは今月初め。広島で自民党支持者を前にして、安倍はつい に、日本政府のトップを目指すと宣言し、一族の長年の悲願に応えた。「美しい国」と書かれた巨大なパネルを頭上に、安倍は、国の自信と誇りを回復させるつ もりだと表明した。「日本には美しい自然と文化、長い歴史がある。私たちはそのことを誇りに思うべきだ」と。

あまりにも長く「自虐史観」に支配され続けた国の教育制度を、刷新するつもりだと安倍は言う。日本の財政基盤がしっかりするよう、社会保障制度も作り直す。アメリカ製の憲法は改正を目指す。そして日本の軍事力に対する規制も取り外す。

安倍の出馬宣言には、長州の心を揺さぶる主張が、あちこちに散りばめてあった。総理として自分は、国益のための政治をするつもりだと。日本が豊かで、かつ 安全な国であり続けるよう、努力すると。そのためには日本は世界に対して自らを開き、日本の創意工夫や競争力を刺激するような新しいアイディアが海外から 流れ込んでくるような、開かれた国にならなくてはいけないと。日本は世界に開かれた国であると同時に、強い国であることができるのだと。現代日本の建国に 貢献した吉田松陰や高杉晋作といった長州の倒幕志士たちならば、安倍の言葉に深くうなずいたことだろう。

関連リンク ( 安倍新政権 )