金曜日, 6月 01, 2007

それでも昔の日本には戻れない それはなぜ

ジィさんの威光はコイツも一緒だったなぁ

フィナンシャル・タイムズ

(フィナンシャル・タイムズ 2007年5月31日 翻訳gooニュース) FT東京支局長デビッド・ピリング

日本の安倍首相はエジプト・カイロで、地元記者が日本・エジプト関係について質問するのをじっと聞いていた。やがて答えた首相いわく、両国関係は好調だと いう。しかし興味を引いたのは、首相のこの答えではない。意外だったのは、安倍首相が同時通訳のヘッドホンをつけていなかったこと。首相はいつの間に、ア ラビア語が堪能になっていたのかと、そう見えた。

要するに、記者の質問はかなり前に事前提出されていたものだった。安倍氏はわざわざ通訳を聞くまでもないと、ヘッドホンをしていなかった。質問の内容は事前に知っていたし、どういう答えが自分に求められているかも承知していたからだ。

この一芝居は、かつての鈴木善幸首相を思い出させた。1980年代初めに首相を務めた鈴木氏はあまりに堂々と、用意された答弁原稿を読み上げてばかりいた ので、「テープレコーダー」などと揶揄(やゆ)されていた。安倍首相のカイロでのこの一幕は、ささいな出来事かもしれないが、ささいながらも、日本が昔の 日本に退行しつつあると指摘する意見を裏づけている。なので、注目に値する。

この日本退行論いわく、小泉純一郎氏はあくまでも経済危機が生み出した総理大臣であって、彼の存在は、線香花火のような一瞬のきらめきに過ぎなかったのだ という。小泉改革が日本の政治にもたらした変化は、束の間のものに過ぎなかったのだと。伝説的ですらある日本の強大な官僚機構を小泉氏は制御したかもしれ ないが、それもほんの一瞬のことだったと。そして危機が去った今、日本は通常モードに戻りつつあるのだと。

安倍首相の諸々は、この日本退行論を裏づける状況証拠になってはいる。首相としてのスタイルは、単独主義的・一方的な小泉スタイルよりも、合意重視のコンセンサス型だ。また小泉流の市場主導型政策は、どうも安倍氏にはしっくりきていないようだ。

「オールド・ジャパン」復活を示す出来事がこのところ続いた。自民党が約50年間ほとんど途切れることなく権力を独占してきたのは、「金権政治」のおかげ だが、その金権政治がいかに未だに脈々と続いているかが、おぞましい形で改めて示されたのだ。現役の農水大臣だった松岡利勝氏が5月28日、首をつって自 殺した。松岡氏は、公共事業の受注に関わる公益法人などから献金を受けていた問題で、追及されていた。そして松岡氏自殺の翌日、談合の仕組みを作ったとさ れた公団元理事が投身自殺した。

連日の悲劇は、安倍首相の評判に影を落とす。政権与党・自民党をもう何十年にもわたり汚してきた、薄汚い政治のありようを、あたかも首相自身が容認してき たかのように見えるからだ。しかし実際には、これは言うならば、旧体制の断末魔のもがきであって、「オールドジャパン」の健在ぶりを示すものではない。日 本が「小泉の前」の状態に戻りつつあるという結論は、間違っている。

小泉氏は決して、自分ひとりで変化のきっかけを作ったわけではない——というのが理由のひとつ。小泉氏は、新しい変化を自分で巻き起こしたのではなく、す でに始まっていた構造的変化を象徴する、「顔」(と髪型)だったのだ。いま新しいものに変身しつつある日本の戦後体制はそもそも、高い経済成長率がなけれ ば続かないものだった。自民党は公共事業を通じて、都市部で吸い上げた税収を農村部に注ぎ込んだ。注ぎ込んだ金の報酬として自民党は、農村部の中選挙区か ら票を吸い上げ、また公共事業の恩恵を受ける色々な利益団体から「政治献金」を受け取っていた。これが、自民党の戦後体制だった。しかしこのシステムはも う機能しない。理由は単純。金がもうないのだ。公共事業予算は過去10年間で削りに削られた。郵便貯金で道路やダムを作るやり方は、終息しつつある。それ どころか日本の郵便局そのものが、かつてはお小遣いがたっぷり入っていた世界最大の貯金箱が、民営化されることになっている。

米コロンビア大学の日本専門家ジェラルド・カーティス教授によると、日本は今、現代に入って3回目の巨大な変革期にさしかかっているという。最初は、日本 の指導層が封建主義を捨て去った明治維新。2回目は、高度経済成長実現のための仕組みを作った戦後復興。そして3回目の変革期のことをカーティス教授は 「20年越しのデケイド(10年間)」と呼ぶ。この間に日本は、氷河が動くが如くの緩慢な速度でゆっくりのろのろと、しかし大地に渓谷を刻むが如くの確か さでじわじわと、国内の経済危機や国際経済のグローバリゼーションに対応してきたというのだ。この緩慢な調整プロセスを通じて、かつて日本が誇った護送船 団方式の資本主義は崩れ、さらに企業間の株式持合も結びつきがほどけていった。これはつまり、平等な所得分配の放棄を意味する。さらに政治の世界では、札 束ぎっしりの封筒が選挙を左右することがなくなるし、総理大臣の権限と責任が拡大することになる。

世間一般的に安倍首相は気弱とか弱腰とか見られがちだが、実際には、改憲や愛国教育という異論の多い政治テーマに実に熱い情熱を抱いている。そして、小泉 首相が郵政改革に邁進(まいしん)したと同じぐらいの情熱をもって、改憲や教育改革の実現に突き進んでいる。それに実は安倍首相の方がよほど大胆に、公共 事業や公務員制度への支出をばっさりと削っているのだ。

「オールドジャパン」の残滓(ざんし)は確かにしつこく残っている。日本の政界で見て見ぬふりをされている最大のネックは、野党の力不足だ。野党はいつま でたっても、本当の意味で自民党を脅かすことができないでいる。自民党を支え続けた政治の仕組みがもうガス欠になりつつあるというのに。日本の野党はどう してこれほどまでに、事態を自分たちの有利に運ぶことが下手なのか。となると、野党の存在意義とは政権獲得にあるのではなく、政権与党=支配層に正当性を 与えることでしかないのではないか——そう結論したくなる。

キュー出ししてもらわなくても自発的に答弁できる党首が見つかれば、野党は自民党よりはよほど有利になれるかもしれない。しかし世の中には、決して変わらないものもある。変わるはずのないものに変化を求めるのは、それは無理というものかもしれない。